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【アラベスク】  第4章 男ゴコロ



第2節 銀梅花の香り [11]




 聡が顔を寄せると、美鶴はギュッと瞳を閉じた。
「サイテーだ」

 ―――――――っ!


「サイテーだよ」


 触れた唇は、干からびた大地のようにカサついている。
 そうだ。俺はサイテーだ。
 潤すように舐めてやると、美鶴の両手の力が増す。
 拒絶したい全身が不必要に(りき)み、逆に唇には力が入らない。思うように閉じることすらできないようだ。
 微かに、血の味がする。
 怯えているのか。可愛いな。
 だが抱き寄せると、甘い芳香が漂う。

「良い香りですね」

 ――――――っ!

 強引に舌を押し込んだ。逃げる美鶴のそれを追い回す。捕まえると、小さく呻いた。
 だが美鶴には、何もできない。
 下手に動けば、箒やモップに身体が当たる。
 無造作に放り込まれたそれらは不安定だ。触れればどのような音を出すかわからない。
 美鶴には、何もできないのだ。
 卑怯だ。サイテーだ。
 これは犯罪だ。
 わかってはいる。だが聡は、もはや自分を抑えようとは思わない。

 だって、悪いのは美鶴なんだ。
 お前が俺を、こうさせるんだ。

 背中に回した腕に力を入れた。

「下種が」

 瑠駆真へ向かって吐いた言葉。今は自分の脳天を貫く。
 こんなところをアイツに見られたら、罵倒どころじゃ済まねぇだろうな。
 そう苦笑してしまうほどの醜い余裕を(たた)えた自分。なぜだか、ひどく心地よくも感じてしまう。
 それほどまでに、自分は卑しい人間だったのか?
 目の裏で、逃げ惑う美鶴が踊る。黒々とした、少し潤んだ瞳は光をたたえ、その肌は透けるように白く、長い手足がしなやかに伸びる。
 小さい頃から知っている、でもいつの間にかどんどん綺麗になっていくその姿に、銀梅花の香りが纏わりつく。
 やらねーっ!
 絶対に誰にもやらねーからなっ!
 鷲掴みにしたモノを力いっぱい引っ張った。

 ――っ!

 グイッ …………… トンッ
 キキキィィー

 ――――――っ!

 まるで小動物の鳴き声ではないかと思うような音。どちらの身体も固まる。
 ただ一つ、中途半場に押し開かれた扉だけが、微妙にゆらゆらと揺れている。
 聡の身体を押しのけた反動で、美鶴の背中が戸に当たった。建てつけの悪い扉は、それだけで開いた。
 二人とも、瞠目したまま耳に集中する。
 バレたっ?
 だが、どれだけ待っても、誰も来ない。人の気配すら感じない。
 意を決して、聡が扉を押し開ける。もちろん音を出さぬよう細心の注意を払って開け放ち、一歩外へと踏み出した。
 果たして、見回りはすでに去っていた。他の階へ移動してしまっていた。
 よかった
 まずそう安堵し、だが、それほどの長い時間が経っていたのかと少し驚く。
 聡には、ほんの数秒の出来事にしか思えなかった。
「もう行っちまったみたいだぜ」
 何でもない事のようにそう言って振り返った先、刺すような視線とぶつかる。
 怒りとは、激しさが高まると熱よりもむしろ冷たさを感じる。
 美鶴の視線は、まるで氷でできた槍のよう。長く鋭く、そして激しい。
 ふらつきながら外に出る美鶴へ手を伸ばし、だが視線で一喝された。

「外道」

 ―――――――っ!

 世界が揺れた。







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